2.4 太陰太陽暦


1.太陰太陽暦とは

前回の太陰暦の回でも少し触れましたが、太陰太陽暦とは、太陰暦に季節変化を決める太陽暦の要素を取り入れて作られた暦法です。

太陰暦は月の満ち欠けの周期的変化を基準にしています。月が平均27.32日で地球の周りを公転し、その間地球も太陽の周りを公転し移動しているため、月が朔(新月)から朔へ一巡するのにかかる時間は29.530589日です。これを1朔望月といいます。1朔望月は約29.5日なので、29日の小の月と30日の大の月を交互に並べると、12朔望月は約354日となり、地球が太陽の周りを公転する周期(1太陽年)の約365.24219日より約11日短くなります。そのため、太陰暦による暦日と、太陽による実際の季節変化との間でずれが生じます。これを調和させるために、太陰暦と太陽暦とを組み合わせた暦法が生まれました。これを太陰太陽暦といいます。

2.太陰太陽暦の例

太陰太陽暦の暦日は前記の通り、月(太陰)の満ち欠けに従っていますが、太陽の運行による実際の季節を知る方法は、大きく分けてオリエント方式と中国方式とがあります(『アジアの暦』岡田芳朗,大修館書店,p8から引用)。

オリエント方式とはバビロニアに発してギリシアや古代ローマでも行われ、ヨーロッパでは今日でも用いられていて、東に普及してインドにまで影響を与えた方式です。太陽が黄道付近に設定された十二の星座(黄道十二宮)のどこに位置しているかによって、正しい季節を知る方法です。

一方の中国方式は二十四節気によるもので、太陽の1年(約365.25日)を24等分して、その一つ一つに「立春」や「雨水」などのように季節を表す名称を付けて正しい季節を知る方法です。

ここでは、中国の臣下とされた東アジア・東南アジアにもたらされた中国暦をご紹介します。

中国では、皇帝は天命を受けて即位したとみなされていて、天体現象は天の意思の現れであり「観象授時」という国民へ正しい暦を授ける行為は、皇帝の義務であり特権でした。このように、新しい王朝は天命を受けて生まれでるという中国の政治思想から、新しい王朝が成立する度に各種制度の変革が行われ、改暦もこれに含まれていたため、正式な暦は40有余、暦法名が残っているものも含めると100以上の暦法があるといわれています。

29日の小の月と30日の大の月の配列方法や、19年を1つの周期とし19年に7回の閏月を置く章法など、太陽年と太陰年の調整法などを長い時間をかけて整備されていきました。

中国暦の特徴である二十四節気については今後改めて書きたいと思いますが、二十四節気とは1太陽年を太陽の黄経によって24等分し、それぞれに季節の名称を与えたものです。例えば二十四節気の一つ「立春」であれば、太陽の黄経が315度のときをいい、次の「雨水」までの期間のこともいいます。もともとは1年を時間的に24等分して、各節気を約15日毎に配列していた平気法が用いられてきましたが、地球の公転は楕円運動であるため、運行速度が一様ではなく、天文学上の実際と一致しないことがわかってきました。西洋天文学の導入により、春分を黄経0度として黄道を24等分し、地球から見て太陽の位置が15度移動する毎に一節気を進める定気法が、時憲暦(1645~1911)から採用されるようになりました。

二十四節気は、太陰暦による暦上の月日に、太陽による季節変化を併記することにより、農作業をはじめとした季節毎の準備や作業、注意すべき自然現象を知らせてくれるものです。

3.日本での太陰太陽暦

6~7世紀頃に百済を通して伝来した中国、宗の元嘉暦が、日本にもたらされた最初の暦だといわれています。中国は古くから太陰太陽暦を使用してきたため、伝来したいくつもの暦も太陰太陽暦でした。

日本に伝来した中国暦は元嘉暦を初めとして儀鳳暦、大衍暦、五紀暦と続き、862(貞観4)年から行用された宣明暦は、朝廷の衰微や暦学の停滞、家学化もあり、行用期間は823年にも及びました。

天文学の知識が高まってくると暦と天行とが合わないことが問題となり、暦を改めようとする動きが起こります。そして1685(貞享2)年、渋川春海によって初めて日本人による貞享暦が作られました。これは、中国暦に里差(時差)を加味し、日本の風土に合わせて作られた暦法でした。

その後、宝暦暦、寛政暦、天保暦と改暦が行われ、天保暦は西洋天文学の暦理や数値を参考にして、最も精緻で完成度の高い太陰太陽暦といわれています。

1873(明治6)年からグレゴリオ暦(太陽暦)が採用されることとなり、それまで用いられてきた太陰太陽暦は旧暦と呼ばれるようになり、直前の天保暦のみを指して呼ばれることもあります。

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